国務院機構を根本的に改造

もっと厄介な壁は、改革を指示すべき国務院そのものである。中国の役人の仕事ののろさは有名だが、書類がたまって遅いというだけでなく、前例のないような案件の決済になると、すでに大方針が出ていても、ためらう。机の上にその書類が一枚だけあったとしても、ハンコを押さず何日でも放っておく。後で問題が生じ責任をかぶるようになりはしないかと恐れるのである。その国務院官僚が国有企業に粗放型経営を改めよと、改革を指示したところで、相手がそれを承知するとは考えられない。国務院機構を根本的に改造しなければ、国有企業の改革が満足に進むはずがなかったのである。

朱鎔基は、この壁を破るべく登場したのであった。李鵬は原則を述べたが、原則だけでは壁を破ることは出来ない。全国人民代表大会に集まってきた政治家たちにも、改革の最後の壁の所在は十分に分かっていたのだろう。それだけの根回しも、長い期間をかけて、やってきたのだろう。しかし、たぶんにカリスマ的にことを運ばなければ、騒ぎが起こることは避けられない。その人は朱鎔基をおいてなかったのであろう。

一九九八年三月の全国人民代表大会九期第六回会議で、ほとんど満場一致で朱鎔基は首相に推され、ただちに新しい段階の改革が開始された。国務院の一五の部(日本の省に当たる)と委員会(委員会の方が部より格が高い)が廃止され、四つの部と委員会が新設され、三つの部と委員会が改称され、二二の部、委員会、銀行、署が存続することが決定された。現業管理部門は、行政と経営の分離を実行し、企業を直接に管理しないことが再確認された。ただし石油、天然ガス、石油製品、石炭、自動車の五品目の生産・供給計画については、政府が直接に関与する。職務の集中化にともない、定員は半分に減った。余った人員は企業や地方機関などに分散させられるが、それには三年かかるという。

朱鎔基は紡績産業をはじめとする、全産業にわだってのスクラップーアンドービルドの実行の責任も背負ったのである。その改革のために、実質失業人口は一一〇〇万人から一三〇〇万人に及び、失業率は六ないし七%となり、建国以来五〇年間での最高を記録している。中国国民の物質生活は、一方では、二十年余りの平和な時代の経済発展によって、いちじるしく近代化し豊かになった。一九九七年の耐久消費財の一〇〇所帯あたりの所有台数は、都市と農村において示す数に達している。