「海洋アジア連合」と天心の夢

日本史をふり返り、日本が外向きになって大陸に進出していった歴史に注目すると、過剰介入によって成功した事例が見事に一例もないことがわかる。なぜなのだろうか。秀吉の朝鮮出兵はいうまでもなく、近代以降を見ても韓国合邦、辛亥革命支援による中華民国建設、大枚の借款の提供、満州国建設、支那事変、などなど。近くは中共政権に対する膨大な資金提供による経済(軍事?)建設支援も、反日国家作りに貢献しただけである。一体どうしてなのか。

事件の背景・原因はそれぞれ同じではないが、要するに、興亡常のない大陸と「和をもって貴しとなす」海洋国家の文化と人間は異質なのだということであろう。これは「歴史の鑑」とすべき重要な教訓であり、今後も念頭に置くべき事柄である。私はかねてより「海洋アジア連合」にアジア外交の基軸を移すことを提唱している。海は世界と通じ合っている。大阪湾・東京湾の水はインド洋、アラビア海に通じているのである。

陸地よりもはるかに開放的な海に面している国家は、外来文明に対して概して寛容であり歴史的に開かれた対応能力を備えていることが多い。東南アジアの半島国家もほとんどすべて海に向かって開かれている。政治的な理由で人工的に閉鎖的な政策が採られない限り、外に向かって開かれている。この共通点を活かして新たな絆を強化することがその狙いである。「連合」の対象は当面、台湾、東南アジア諸国、そしてインドである。

シーレーンの確保、海路の安全、海軍や沿岸警備隊の技術支援、海上定期航路の増発、海の資源の活用と融通、津波対策など、共通の課題はいくらもある。いずれこの「連合」に、太平洋の島嶼国家やスリランカバングラデシュパキスタンなどの南アジア諸国も加入を認めてよいだろ

日本の技術者の特徴は一つの生産工程にまとめあげる技術があることだ

文革の取材を終わって日本に帰ってみると、文化大革命は人々のにぎやかな話題にはなっていたが、ベトナム戦争とからめて理解している人々には、ほとんど会わなかった。先にも書いたように、そもそも大三線計画の内容が、国内ですら20年近くも公開されず、外国人には知りようもなかったのであるから、それは無理もない。

歴史の真相は日本人には見えなかった。私たちにはベトナム戦争文化大革命とがつながる東アジアの軍事的・政治的構造は理解できなかったのである。私たちはマイカー・ブームで沸いていたのであるから、なおさら東アジアの緊迫感は伝わってこなかった。

しかし、考えてみれば日本の高度経済成長はアメリカの核の傘のもとでのことであった。しかし、中国や東南アジアの工場を見てまわるうちに日本の技術者が世界各国の進んだ機械を個々に輸入して、一つの生産工程にまとめあげる技術は並のものではないことが分かった。私はその頃、機械が輸入品か国産品かだけを見ていて、それらが実際にどのように使いこなされているかを見落としていたのであった。

輸入品であろうと国産品であろうと、いかに生産性の高い最新の機械・設備であっても前工程や後工程の機械の生産性がそれぞれ釣り合っていなければ、そこで半加工製品は滞貨してしまう。生産工程全体の生産性は最も高い生産性の機械の性能ではなく、最も低い生産性の機械の性能で決まってしまうのである。私か鞍山鋼鉄公司で見た光景は、その最もひどい例であったのだ。
 
だから、日本の技術者が世界各国からさまざまな機械を買いつける時、彼らの頭のなかには生産工程の基本設計がしっかりと入っていて個々の機械の性能はかくかくしかじかでなければならないことが分かっている。つまり、きわめて正確な仕様書の一群を手にしているのである。そのうえで機械を選び、買っているのだ。その基本設計の能力は高く評価しなければならない。

次に機械設備をそろえたうえで生産工程を組み上げたとしても実際には、それぞれカタログどおりの生産性は現れず、あるいは機械の選択を誤ったりして、個々の機械の生産性はでこぼこになっているのが普通である。それで試運転中に、あるいは生産を開始した後でも各機械設備について一つ一つ作業方法を工夫したり、機械の一部を改良したりして次第に全体のバランスを取っていくのである。

このためには、技術者が現場に張り付いていなければならないし、機械を運転する労働者の知恵も借りなければならない。技術者や労働者の協力のしかたは日本特有のもので、中国や東南アジアや欧米では、こういう体制はとりにくい。

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PKOの変貌

こうした提言は、それ以後どのように具体化されていったのだろうか?1992年8月13日、安保理は旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナで起きた紛争の人道援助を促進するため武力行使を含めた「必要なあらゆる措置」を取るよう各国に要請する決議案を採択した。これには中国は棄権したが、非常任理事国の日本を含む12ヵ国が賛成した。

この決議は武力行使を容認するという点では1990年11月の湾岸危機で採択した対イラク決議に続くものだったが、PKOという点から見れば湾岸とは違う重要な意味を持っていた。

この決議は人道援助促進と目的を限定してはいるが「国連憲章第七章の下に」加盟国が「一国または地域の機関や協定を通じて」行動することを求めており、北大西洋条約、NATOなどを通じた「多国籍軍型」の武力行使を想定していた。

武力行使を前提とすれば、当然従来のPKOの原則からは外れることになる。そこですでに展開していた国連保護軍、UNPROFORとは切り離した形で武力行使を容認したわけである。だがこの時点では国連保護軍と多国籍軍との関係をどうするか?国連保護軍が攻撃を受けた場合にはどうするか?などの細部は議論されていなかった。

というのも旧ユーゴ紛争をめぐっては、その直後の8月下旬、国連と並んで欧州共同体、ECのバンス元米国務長官、オーエン元英国外相という2人の共同議長が和平交渉に乗り出したからである。

安保理決議はこの時点では国際社会の強い姿勢を示し、和平交渉を促進する狙いが込められていた。その後の9月14日、安保理は保護軍を大幅に強化する決議を採択したものの、とりあえずは武力行使を留保して和平交渉が熟すのを待つ姿勢を取り続けた。

事前行政から事後行政へ

最近では2001年3月末のペイオフ解禁を延期すべしとの議論も出てきている。たしかにその後の金融危機は予想を越えるものであり、あの頃5年後に想定していた健全な金融情勢は残念ながらまだ実現していない。ペイオフや資金援助に代わる破綻処理方法も十分整備されたとは言えない。

しかし、2001年3月末の区切りは守るべきだ。さらに3年待ったら事情が全く変わるわけではないだろう。しかもその間、不安定な宙ぶらりんの状態が続くのは金融システムにとってよいことではない。

ただそれは、当時も明記したように「ペイオフも選択肢の一つになる」のであって、社会的コストの高いペイオフをできるだけ少なくするような制度上・運用上の工夫をする必要がある。第二ラウンドの金融危機は、この問題の適切な処理をもって終了する。締切りは間近に迫っている。

護送船団方式とは何だったのか、金融分野に限らず、戦後の日本経済は基本的には、善かれ悪しかれ護送船団方式で、落ちこぼれを出すことなく日本人が一丸となって成果を上げてきた。しかしあまりにも成長・変化が早かったから、その過程で多少の落伍者が出てくることは避けられない。

その場合にメインバンクは、社会に混乱を起こさないよう支援・処理にあたることになる。猛烈なスピードで先進諸国を追い上げる戦後の日本経済において、銀行は日本経済に対する燃料補給機関であると同時に、救急車であった。

そのような重要な役割を担う銀行が倒れないように、国家が金融の後ろ盾となる。日本経済は、そういう三段構えの縦深陣地になっていた。経済発展のスピードが極めて速いにもかかわらず、社会全体が大きな混乱を起こすことなく前進できたのは、戦後の日本経済全体が護送船団方式であったからだといえる。この意味では、食糧管理制度や中小企業対策なども護送船団方式のわが国経済体制の重要な構成要素であった。

国務院機構を根本的に改造

もっと厄介な壁は、改革を指示すべき国務院そのものである。中国の役人の仕事ののろさは有名だが、書類がたまって遅いというだけでなく、前例のないような案件の決済になると、すでに大方針が出ていても、ためらう。机の上にその書類が一枚だけあったとしても、ハンコを押さず何日でも放っておく。後で問題が生じ責任をかぶるようになりはしないかと恐れるのである。その国務院官僚が国有企業に粗放型経営を改めよと、改革を指示したところで、相手がそれを承知するとは考えられない。国務院機構を根本的に改造しなければ、国有企業の改革が満足に進むはずがなかったのである。

朱鎔基は、この壁を破るべく登場したのであった。李鵬は原則を述べたが、原則だけでは壁を破ることは出来ない。全国人民代表大会に集まってきた政治家たちにも、改革の最後の壁の所在は十分に分かっていたのだろう。それだけの根回しも、長い期間をかけて、やってきたのだろう。しかし、たぶんにカリスマ的にことを運ばなければ、騒ぎが起こることは避けられない。その人は朱鎔基をおいてなかったのであろう。

一九九八年三月の全国人民代表大会九期第六回会議で、ほとんど満場一致で朱鎔基は首相に推され、ただちに新しい段階の改革が開始された。国務院の一五の部(日本の省に当たる)と委員会(委員会の方が部より格が高い)が廃止され、四つの部と委員会が新設され、三つの部と委員会が改称され、二二の部、委員会、銀行、署が存続することが決定された。現業管理部門は、行政と経営の分離を実行し、企業を直接に管理しないことが再確認された。ただし石油、天然ガス、石油製品、石炭、自動車の五品目の生産・供給計画については、政府が直接に関与する。職務の集中化にともない、定員は半分に減った。余った人員は企業や地方機関などに分散させられるが、それには三年かかるという。

朱鎔基は紡績産業をはじめとする、全産業にわだってのスクラップーアンドービルドの実行の責任も背負ったのである。その改革のために、実質失業人口は一一〇〇万人から一三〇〇万人に及び、失業率は六ないし七%となり、建国以来五〇年間での最高を記録している。中国国民の物質生活は、一方では、二十年余りの平和な時代の経済発展によって、いちじるしく近代化し豊かになった。一九九七年の耐久消費財の一〇〇所帯あたりの所有台数は、都市と農村において示す数に達している。

複雑で微妙な課題

イスラム教の守護者スルタンを頂点とする、マレーの伝統的政治構造は独立後も守られた。イギリス植民地時代の官僚制度が継承され、イギリス人が独占していたこの官僚機構のなかに独立後参入して行政支配力をにぎったのは、マレー人エリートであった。経済力の中枢を掌握するのが移住人種であり、政治支配の中枢に位置するのがマレー人であるという構造のもとで、国民国家を形成し、国民経済を構築するという、複雑で微妙な課題を背負って出発したのが、マレーシアであった。各人種の政治エリートの協調路線が独立後の政治の基本であり、統一マレー人国民組織マラヤインド人会議、マラヤ華人公会の二者からなる「アライアンス」が、各人種の利害を「ファイン・チューニング」微調整しながら、国家を運営するという「調整型」の政党政治システムがとられてきた。

マレーシアの場合、その独立はさきにも記したように武力闘争によってではなく、イギリスの「禅譲」によって与えられた。それゆえ、独立闘争のにない手であるはずの軍部の権力と威信は、周辺諸国のそれに比べて弱いものであった。マレーシアの政治支配の中枢に位置したのは、政治エリートであり、彼らが支配力をにぎる政党であった。とはいえ、アライアンスのそのまた中枢にいたのはマレー人の組織UMNOであり、これが官僚機構を掌握した。UMNOの地位が決定的に強化されたのは、一九六九年五月一三日の人種暴動以降のことであった。

世界経済における7つの現状分析

良い知らせは、この時期が終わりを告げようとしていることだ。しかし衝撃が終わり大半の国家経済が回復したとはいえ痛みはまだ続いており、この景気後退の後遺症はかなり長続きするものと思われる。現在景気回復の形態や期間を予測するのが難しいように、この異例で注目に値する特徴が今回の景気後退を、とりわけ分析及び予測し難いものにしている。結局欧米の企業と金融界は過去十年間、多くの面でより開かれ、透明性を増したものの、「陰の銀行システム」が保有する負債と債券が崩壊したことによって突然大打撃を受けた。その規模や性質、それに世界的影響は規制当局や市場参加者ですら全く分からなかった。

欧米や日本の政府が大掛かりで前例を見ない施策で、この突然の崩壊に迅速に対処したとはいえ依然として特に明確性と透明性を欠く一部金融界では今後も意外な出来事が起こらないとも限らないのだ。更に世界中どこでも政治上予想外の出来事が起こる可能性がある。というのは失業者の増加や金融システム救済のために納税者が強いられる大きな負担、更に公的負債や税負担増への不安などに対する社会的、政治的反応は変転するからである。それにも増してこの経済ショックや欧米の景気後退の特殊な経済環境を考えると景気回復時には心理状態が大きな役割を果たすものと思われる。つまり欧米企業や消費者は景気が回復したなら従来のように借り入れや支出をするだろうか?

あるいは新たな環境では高額の借り入れや多額の支出は危険過ぎると考えるだろうか?その答えを事前に知ることは出来ない。このような極めて不確定な経済環境にあって一体世界経済はどこへ向かっていくのだろうか?経済危機が与えた多くの影響を探るものである。国際金融や通貨、環境問題と資本主義の今後について論じようと思う。世界経済の今後を考えるに当たり単純な予測だと情勢が激変しているため間違いを犯しやすい。むしろ実際に起こる事象やそのリスク、それに地球規模の政策が行なわれた際の影響を分析したほうが良いだろう。そのような分析を行なう上で経済と哲学的指針を与えてくれるのは意外にも、ジョージ・W・ブッシュ大統領の下で国防長官を務めたドナルド・ラムズフェルド氏である。

アメリカのイラク侵攻が大失敗に終わったことは、ラムズフェルド氏が国防長官として不適任だったことを示しているが、それでも彼は優れた分析家であり少なくとも記者会見で出た名言は広く引用されていた。2002年、会見の席上で「私たちは確実に分かっていること、より不透明で分からないことを選別すべきだ」と述べたのである。ラムズフェルド氏は第一のカテゴリーを「既知の既知」とし、第二のカテゴリーを「既知の未知」と呼んだ。後者の第二のカテゴリーは実際に既に知られているリスク、あるいは予想されるプラスとマイナス面である。

彼は更に第三のカテゴリー「未知の未知」があるとし、私達が思いもよらぬような驚くほど無限の力を持った事柄があることを指摘した。世界経済を考察する上では前二者の「既知の既知」と「既知の未知」すなわち分かっている事実とリスクに限定したい。まず世界経済で明白な事実から列記することにしよう。第一の明白な「既知の既知」は世界中で特に欧米と日本において激減する民間需要が増大する公的需要に代替されたか少なくとも補償され、民間負債が公的負債に置き換えられたことである。