複雑で微妙な課題

イスラム教の守護者スルタンを頂点とする、マレーの伝統的政治構造は独立後も守られた。イギリス植民地時代の官僚制度が継承され、イギリス人が独占していたこの官僚機構のなかに独立後参入して行政支配力をにぎったのは、マレー人エリートであった。経済力の中枢を掌握するのが移住人種であり、政治支配の中枢に位置するのがマレー人であるという構造のもとで、国民国家を形成し、国民経済を構築するという、複雑で微妙な課題を背負って出発したのが、マレーシアであった。各人種の政治エリートの協調路線が独立後の政治の基本であり、統一マレー人国民組織マラヤインド人会議、マラヤ華人公会の二者からなる「アライアンス」が、各人種の利害を「ファイン・チューニング」微調整しながら、国家を運営するという「調整型」の政党政治システムがとられてきた。

マレーシアの場合、その独立はさきにも記したように武力闘争によってではなく、イギリスの「禅譲」によって与えられた。それゆえ、独立闘争のにない手であるはずの軍部の権力と威信は、周辺諸国のそれに比べて弱いものであった。マレーシアの政治支配の中枢に位置したのは、政治エリートであり、彼らが支配力をにぎる政党であった。とはいえ、アライアンスのそのまた中枢にいたのはマレー人の組織UMNOであり、これが官僚機構を掌握した。UMNOの地位が決定的に強化されたのは、一九六九年五月一三日の人種暴動以降のことであった。