存在的不安

こうした強烈な不安がかもしだす外界の見え方は、私どもふつうの状態の人が、いざ事がおこるまではなにも懸念せずに、安泰な現状がいつまでもつづくものと思いこんで気楽にすごしている私どもとはちがった「存在的不安におちいった人」に語らせる方がずっと実感にとんでいる。「存在的不安」におちいった人では、外界に別段不安恐怖のたねとなるべきことかないのに、彼のなかの方から人間の瓦解がはじまったために、強烈なおそれが生ずる。

「どこにいてもこわい。なにかがおこりそうだ。殺されそうな感じがする。夜も昼もこわい。どこにも居場所かない。なにかか私をおびやかしておとしいれようとしている。陰謀かもしれない。なにかしれない不安がたえず私のまわりにまといついている。部屋にはいって戸をしめると、それはすばやく彭のようにすべりこむ。

夜、本をよんだり視線を下にむけていると、視線のわぎの方を影のようなものかとみえる。硝子戸ごしに白っぽい顔をみた。犬がほえている。窓のそとにいるのはなんだろう。たにかか鉄格子につかまってのぞきこんでいるようだ。ピッタリと窓にはりついている。寝床にはいってあおむくと、天井板の節孔からのぞかれている。この家の天井はとてもひくいので、すぐそばから見はられている感じがする。あかりのまわりをとんでいる蝿のうなりが、障子のはためきが、顔をもっかものにかえられていく。色の壁と天井と、また家全体が一緒になり、私のまわりをとりかこみ、重くのしかかってこようとする」。

こうした途方もない不安と恐怖自体が危険にさらされていると感じられた不安と恐怖が外界になげこまれれば、次の二、三の記録にみられる破局感となる。

「その晩十時半のこと、突然にすべてのものが彼女からとざされてしまった。そして自分のなかがおきかえられてしまった。この目以聡世の巾すべてが除気になった。窓のそばに立っていたとき、空全体が肝くなった。雨は非常なはげしさでおちた。なみの雨ふりではなくて、むしろ一種のノアの洪水だった。道の上で子供たちが泣いていた。

小さな子供たちはいつものようにふざけもせず、たのしそうでなかった。言えにはいっもとてもたのしげに彼女のもとにきたとなりの子は、彼女に背をわけ、とてもあわれな眼つきで彼女をみつめた。自分の家の壁に神様の絵の縁がかけていたが、もとはこの絵をみあげると、神は彼女と一緒にほほえむものだったが、その神が今はかなしげな表情をあらわした。太陽はもはやかかやぎを失っていた。ものの色はもとのままたったけれど、以前とちがってものみなすべてのかかに生命か失せていた」。

「私の病気は食欲不振ではじまり、食物をみると胸がわるくなりました。それでみなか私を好かないのじやないかと気がかりになりました。家のひとは妙な態度で話をしました。私がそばにいないと、とても話に調子がのる様子でした。映向をみてもちっともおもしろくありませんでした。かなしくて、とりみだしていて、人が話しかけるとビクンとなりました。

午後になりました。そ。れは奇妙な午後でした。私か頭にわるい考えをもっている間、太陽はかがやきを失っているように思われました。よい考えをもつとすぐ太陽はまたかがやくのです。私は太陽かのぼったりおちたりしているのだと考えました。

夕方橋のところへいきました。するとやにわに夜にたり空しか。私は、ああ世界はほろびるのだと思いました。そうでながっかり夕暮のときがあるはずでしたから。空は一ヵ所真赤でした。あれはハンブルグがもえているのだ、そう思ました。それは世界の終りでした。