異文化体験と自己実現

文化戦争は夫婦の間にもよく生じる。多くの場合、父性原理を優位とするのは女性である。日本の男性は日本的集団に帰属している限り、母性原理を相当に身につけている。自分の意見があっても、めったに自分から言い出したりしない。自分の考えというよりは、まず集団の傾向を察知し、それに同調していくなかで、自分の考えを生かすことを考える。全体のバランスを考えることが先行する。これを「和」の精神と言ったりする。現実はこのようであるが、マスコミを通じて流れる評論は、むしろ父性原理に頼るものが多い。それは父性原理の方が論理的に強いし、切口も鮮やかである。日本の現状を批判したりするのには、もっとも適している。

ただ、実状には合いにくいことが多いだけである。夫が仕事に出てる間に、妻がマスコミの論調に動かされると、それは父性原理によって武装されてくる。夫が外で好きなことをしている(というふうに見えてくるのだ)間に、自分がひたすら忍従しているのは馬鹿げている、と考えて、妻は「独立」したくなってくる。このようなわけで、父性原理という錦の御旗をもって、妻が夫を攻撃する。夫は「和」の精神によってグズグズ言うが、論戦においては妻の方が勝つことが多い。そして、遂には離婚ということにもなりかねない。このような「戦争」の仲裁役として、われわれ心理療法家が仕事をしなくてはならぬときがある。戦争が起こっているときは、既に述べたような説明は役に立たない。われわれにまずできることは、夫と妻それぞれの身代わりとして相手に会い、その攻撃や非難を受けることである。

どちらの考えも、もっともなのである。「この辺で自立したい」という妻も、「自分は好きなことなどしていない。妻子のことを思ってひたすら耐えてきた」という夫も、どちらも一応はもっともである。ただ、どちらも相手を攻めることに急で、理解しようとしないのである。心理療法家は、このような文化戦争の十字砲火のなかに立って、理解への機が熟するのを待つしかない。それぞれの身代わりとして「異文化体験」をわれわれはするのであるが、それを通じてこそ仲介の役を果せるのである。異文化問題は同一国内の世代間にも発生する(世代間の倫理観の差については本書第十二章においても論じられる)。現代の若者は現代社会に「ゆたかさ」をもたらした価値観、倫理観をもって生きているのに対して、老人は自分の生をいかに終わらせるかという課題に直面している。両者の間に文化戦争が生じるのも当然である。

最初にも述べたように、われわれ人間のなかの「内なる異文化」の自覚をよほどしっかりともたないと、外側につぎつぎと現われる「異文化」と戦うか、それを嘆いてばかり、ということになるのが現在の日本の状況である。それも「異文化」などというのではなく、自分の周囲には、勝手者とか、ものわかりの悪い者ぽかりがいるように感じられてくる。こうなるとつい「昔はよかった」と言いたくなるが、それは一時的な気休めになるとしても、問題の解決には役立たない。子どもが不登校になったり、家庭内で暴力をふるったりすると、親としては大変である。何とかしたいという思いに支えられて、このような人が心理療法家のところに通って来られる。これに対して、われわれは特効薬をもっているわけでも、よい方法を知っているわけでもない。多くの場合、その言葉にひたすら耳を傾けている。このひとつの理由は、ほんとうに人間を変えるものは「体験」しかない、ということである。頭でわかっても、それは人間を変える原動力にはならない。

「異文化」を体現しているともいうべき息子、あるいは、夫、妻、それと正面から対決して、その戦いを「体験」してはじめて、解決への道が見えてくる。それは実に苦しい道である。異文化に対する一番簡単な対し方は、それを自分と「異なる」ものとして関係を断つことである。「異常だ」とか「わけがわからない」などと言えばよい。異文化との真の関係の確立はあまりに苦しい道なので、多くの人がそれとの関係を切りたい欲求にかられる。しかし、そうはさせない内的な必然性によって進められていく。特にその相手が自分の子どもの場合は、簡単に関係を切れるものではないと言っても、そうしてしまう人もあるのだが、われわれ心理療法家は、そのような苦しい道を歩むことの意義をよく知っているので、その人の歩みをできる限り援助し、途中で投げ出さないように努力する。しかし、時には、われわれの方が投げ出したいと思うことさえある。