金融自由化の圧力

その頃の日本は、まだ、為替や金融デリバティブを証券会社で行うことができず、大蔵省は外資系証券会社に優先的に銀行免許をだすことで、米国からの金融自由化の圧力をかわそうとしていた。はからずも規制のおかげて、私はウォール街文化に触れる機会を与えられたわけである。

私は、もっぱら自分の好奇心と英国大蔵省出身のデリックーモーン会長(現ソロモンースミスバーニー副会長)の魅力にひかれて、しばらく働くことに同意した。そこで見たのは邦銀ではもちろんのこと、米国の銀行持株会社セパック内では異文化集団とみられていた資本市場グループでも経験したことのない独特の世界であった。先に少々戯画化して紹介した昇進祝賀パーティも、この世界ではありふれた光景の一つである。

ソロモンに入ってまもなく、私は、かつて邦銀時代につき合いのあったウォール街投資銀行家たちとは、ずいぶん毛色の違った人たちが、会社の主流を占めていることに気がついた。かつてディロン・リードなど名門投資銀行では、証券の引受や会社買収の斡旋をやるコーポレートーファイナンスの専門家たちが、三つ揃いの背広姿で肩で風を切っていたものだ。

一流のビジネスースクールでMBAをとった彼らは、為替や債券のトレーダーやセールズマンたちを見下していた。ところが、私の参加した九〇年代初頭のソロモンでは、その時々の部門別収益次第で社内勢力に消長はあるものの、自己勘定の為替・債券の売買や裁定取引部門のトレーダーたちの地位が絶対的なものになっていた。

一九一〇年の創業以来、財務省証券部門は常にソロモンの力の源泉であった。市場性財務省中長期証券の新規発行は、八〇年には一言一六億ドルであったのが、九〇年には四二八八億ドルにも膨れ上っていた。この巨大な資金調達は、米国の資本市場のみならず世界の長期金利水準に影響し、各国政府の経済政策や企業の投資動向をも左右するのである。